ご都合主義的自称「フェミニズム」の末路

2020年6月10日

ジェンダーバイアス ジェンダーハラスメント ツイフェミ フェミニズム ミサンドリー

t f B! P L
朝日新聞「かがみよかがみ」2020年6月7日付で、こんなエッセーが掲載されている。


この文章の中身、矛盾だらけ。


私はフェミニズムを学ぶ大学生です。いまはモラトリアムの真っ只中にいて、どう社会に出るか大いに悩んでいます。私は大学院に行ってアカデミックな道に進みたいと思っています。もっとフェミニズムを学び、社会の構造を変えて女性の地位を向上させる一助となりたい。そしてフェミニズムを学ぶ学生の手助けをしたい。

しかしご存知かと思いますが、大学院は期間が長いですし、通ってもお金をもらえるわけではありません。周りの友人は大学4年間を終えたら就職して自立していくのに、私は一体どうなるんだろう。大学院に行きながらバイトをしている人は大勢いる。社会人として働きながら大学院に通ってる人もいる。それは重々承知なのですが、私は周りと足並みを揃えられないことが本当に怖いです。モラトリアムが長くなるほど、社会に出る一歩が重くなるだろうとも思っています。
男性に守られたいと、フェミニストの私が思うのはおかしいこと?

こんな不安が大きくなるほど、私は誰かに守られたいと思ってしまいます。
結婚して、夫に経済的に支えられて好きな研究だけしていたい。他の先生たちのように塾の講師などしないで研究だけできたら、なんて楽しいだろう。何も隠さずに言えばこうなります。しかし、私が学びたいフェミニズムは家父長制のもと家事労働に従事させられた人々から生まれた考え方です。夫に経済的に守られているのは確かだけれど、その代わりに家庭という鳥籠に入れられて、社会という大空に飛び出して自立することを許されなかった。そんな女性たちのあげた声を、私は今まで大事にして学んできました。
私が守られたいと思ってしまうのは、夫に養われたい、すなわち家父長制の保護に入りたいと言っているのと同じです。フェミニストなのに、私はどうして男に守られたいと思ってしまうんだろう。

日本の「フェミニスト」と称する何かは、しょせんは本来の意味でのフェミニストではないのだなと。

古い家父長制パターナリズムに人一倍こだわり、周囲に押しつけるためのツールに悪用されてしまっている。

これは別にこの文章の書き手個人だけの話ではなく、世間では第一線とみなされているような有名な「フェミニズム」の学者や活動家もしばしば陥っている誤謬である。

「男に守られたい」という欲望を正当化するためのツールとして、「フェミニズム」の看板が、本来の意味とは正反対に近い形でゆがめられている。

そして「男に守られたい」という欲望、願望を、

「自分たちを守らない男性は見せしめで攻撃する」
「そのことで、周囲の男に、自分たち女を守るよう圧力をかける手段にする」
「男性には、女性の身代わりで不利益を受ける、力仕事や面倒ごと対応などを一方的に押しつける、責任が問われる場面では代わりに詰め腹を切らせる、など、一方的な男らしさ、ジェンダーロールを強要して当然」

と突き進み、それこそがフェミニズムだとばかりに威嚇する。

これでは、家父長制パターナリズムに、「お姫様願望」「攻撃欲」という自分の欲望を上乗せしただけ。

露骨で保守反動的な、宗教右翼的パターナリズムなのに、それを「フェミニズム」の看板で「進歩的」だと偽装することで、ごまかしやすくなるという側面もある。

「フェミニズム」は、本来の理念的な意味での人権向上という意味なら、それはよいことではある。しかし少なくとも日本の場合は、「フェミニズム」の看板を勝手にねじ曲げて悪用する「偽物」が多すぎる。

偽物の自称「フェミニズム」が横行するせいで、保守反動的・宗教右翼的な古い価値観が、より醜悪な形で再生産されるバックラッシュとなっている。

また大学院の学費や将来の生活不安などについては、「学費低減・奨学金充実」「新人・若手研究者のポスト確保や生活基盤の問題」などが原因で、フェミニズムとは直接的には別の課題である。家庭の責任・個人の責任の矮小化することによって、保守反動的家父長制パターナリズム・偽装「フェミニズム」の方向に持っていくのはおかしなことでもある。

このブログを検索

ブログ アーカイブ

QooQ